日本の歴史や礼儀作法のまとめ

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戦国武将のとんでもないエピソード!戦国武将列伝をご紹介

戦国武将についてのとんでもないエピソードを、戦国武将列伝としてご紹介していきたいと思います。クスっと笑えるものからびっくりするものまで、いろんな種類の戦国武将列伝をお楽しみください。 

はじめに

戦国武将列伝をご紹介する前に、少し戦国時代や戦国武将について触れておこうと思います。戦国時代ってどんな時代だったのか、戦国武将ってどんな人たちだったのかをご紹介します。

戦国時代っていつからいつまで?

はっきり言って、いつからいつまでという厳密な定義がありません。いろんな解釈や意見がいっぱいあって、ここからここまでが戦国時代という線引きが非常に難しいのです。そこで一般的な通説を紹介したいと思います。


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~始まり~

室町時代末期」から「安土桃山時代」にかけての期間のことを「戦国時代」といいます。ですが、戦国時代という名前はあくまで別名です。

もう少し詳しく言うと、1467年に足利家のお家騒動が起こり、日本中に広がります。

このお家騒動を「応仁の乱」といいます。この出来事がきっかけで、室町幕府の力は弱まりました。そしてここからが「戦国時代」とされています。

ですが、その「応仁の乱」の後も力は弱まってはいましたが、室町幕府として機能はしていたのです。そして、1493年の「明応の政変」により室町幕府は決定的に力を失くすことになります。これが戦国時代のスタートとする意見もあります。

応仁の乱

こちらが戦国時代の始まりとされる、応仁の乱です。
戦国時代の始まりと共に戦国武将が誕生します。

~終わり~

1573年に織田信長足利義昭を追放したことで室町幕府が滅亡します。「応仁の乱」あるいは「明応の政変」からこの出来事までの期間を「戦国時代」といいます。ここから「安土桃山時代」に移行します。

しかし、その他にもいろいろな意見があり、1600年の関ヶ原の合戦を終わりとする意見もありますし、1615年の大坂・夏の陣での豊臣滅亡をもって終わりとする意見もあります。

「始まり」同様「終わり」もやはりいろんな意見があり、はっきりとした区切りをつけるのが難しいです。

戦国時代

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戦国武将ってなに?

戦国武将や戦国大名というものについての、厳密な定義はありません。

実際「戦国武将」や「戦国大名」といった役職は存在していないのです。そこでここでも、通説を紹介していこうと思います。

「戦国武将」とは、戦国大名やその家臣のことをいいます。軍勢のリーダーとしての役割から、政治的な役割までこなしていた人たちです。


日本各地に建てられたお城の城主も、この戦国武将と呼ばれた人たちでした。出自も様々で、由緒正しい家柄の戦国武将もいれば、身分の低い農民出身の戦国武将もいました。

織田信長 豊臣秀吉 徳川家康

おもしろ列伝

それでは、ここでは難しい話は少し置き、おもしろ列伝と題して、戦国武将たちの面白いエピソードを紹介していきたいと思います。厳しく過酷な時代に生きた戦国武将たちだからこそのおもしろ列伝、お楽しみください。

好きすぎて…

出羽国に、最上義光という大名がいました。義光はあの伊達政宗の伯父にあたります。

そんな義光は、文化人でもあり名君でもありました。そして何より「鮭が大好き」でした。そこからつけられた異名が「鮭様」です。

異名をつけられる武将は他にもいますが、これほどまでに美味しそうな異名をもっているのは義光だけではないでしょうか。

そんな鮭様もとい最上義光は、お礼とあらば鮭を贈っていたそうです。あの家康への貢物にも鮭を贈っています。とにかく、鮭・鮭・鮭な人でした。

家出

戦国武将として最強説がある上杉謙信についての列伝を紹介します。「軍神」と恐れられた謙信ですが、昔家出をした経験があります。家臣たちが起こす争いなどがイヤになって家出をしました。その後は家臣の説得などで帰国しますが、個性派・謙信らしいエピソードです。

びっくり列伝

さてお次は、なんともびっくり驚愕な列伝を紹介したいと思います。あの戦国武将がまさかの…なんてびっくりする列伝をお楽しみください。

多趣味が高じて…

江戸幕府を開いた徳川家康ですが、その家康は多趣味で知られていました。そんな家康は健康マニアとしても有名だったそうです。

食生活にはとても気をつかい、そしてなんと、自分で薬の調合までしていたといわれています。病気になったときは医者には頼らず、自分で調合した薬で治していたほどです。そのため、薬についての勉強はもちろん行っていました。ですが、家康からすればこの勉強も趣味の範囲内ということらしいです。

そんな家康は75歳で亡くなっています。当時としてはとても長生きということになるので、薬の勉強や健康マニアであったことは趣味の範囲を超えていたのでしょう。

戦国武将らしからぬ!?

戦国武将としてよく名前の挙がる、武田信玄についてのおもしろ列伝です。甲斐の虎との異名をもち、数々の戦で活躍していた信玄ですが、なんとも情けない手紙を書いていました。

それは、家臣である高坂昌信に宛てた手紙です。その内容というのが、浮気の言い訳だったのです。

事の発端は、信玄がお世話役のひとりに言い寄ったことで昌信が嫉妬したということだそうです。その昌信の嫉妬をなんとかしようと、信玄は言い訳も兼ねてお手紙を送ったらしいです。

現代に伝わる猛々しい武田信玄という戦国武将らしからぬエピソードです。ちなみに、嫉妬した高坂昌信が信玄に宛てて書いたラブレターもあるそうです。相思相愛だったということなのでしょうか。

ぶるぶる列伝

最期に紹介するのは、恐怖にまつわる列伝です。奇妙な出来事や、恐れられた人物に対する列伝をお楽しみください。


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呪い?!

1600年に起きた関ヶ原の合戦で討死した西軍の武将である、大谷吉継についてこんな恐ろしい列伝が伝わっています。関ヶ原の合戦において重要なポイントになったのが、小早川秀秋の寝返りです。秀秋の寝返りにより、大谷隊は崩れていきました。


そんななか、自軍の敗北を悟った吉継は「三年の間に祟ってやる」との言葉を残したといわれています。そして秀秋は、関ヶ原の合戦から2年後に亡くなっています。秀秋は、吉継や三成といった西軍の武将たちの幻に苦しめられていたとも言われています。

爆死?!

松永久秀と呼ばれる武将の列伝を紹介します。松永久秀は、出自や生年などが詳しくわかっていないのですが、信長に仕えていたこともある武将です。


戦国時代において、三代悪行を成したといわれています。そんな久秀の死に様というのがとても壮絶なものでした。

信長に謀反した久秀は、信長が欲しがっていた名茶器である「古天明平蜘蛛」に爆薬を詰め、その茶器と共に爆死したのです。壮絶な死に様の武将は大勢いましたが、久秀のように爆死という最期を迎えた武将はいませんでした。

戦国時代に活躍した戦国武将たち

戦国時代に活躍した戦国武将たちによる戦国武将列伝というものは、現代でも数多く伝わっていて、私たちも目にする機会が多いと思います。
上記でも紹介したとおり、クスっと笑えるものから、あり得ないようなものまで、とてもいろんな種類があります。
それを読むと、どこか現実味のなかった戦国武将の人間味のある一面が見られるところがまた面白いです。
今回紹介した内容は、本当にごくごく一部なので、お気に入りの武将の列伝を探してみるのもまた、歴史を楽しむ方法になるのではないでしょうか。